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​縁起

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常陸国筑波郡八丈村本證寺略縁起

   そもそも當寺の濫ちょうは万治三庚子年、本山第十九嗣法日舜上人師の開基なり。願主本證坊日仲、はじめに駿州富士山の麓上井出村に建立(除地なり)信行山本證寺と号す。(舜師御本尊端書きに云わく、上井出村信行山本證寺常住万治三庚子年九月廿八日願主本證坊日仲云々本山の御宝蔵に之れ有り)然るに享保十七年壬子年(万治三年より七十三年になる)常州牛久沼に新田開発あるに由って、羽州米澤妙円寺隠居是好坊公儀(御掛寺社奉行西尾隠岐守様)に願いを達し、御聞済の上、右寺を彼地に引移し之を造立せり(常住板御本尊詳師御筆富士大石寺末流常陸国牛久新田信行山本證寺常住享保十九甲寅年中秋仏生日云々)。境内山林共に三町歩、沼付田地三町歩都合六町歩除地に仰せ付けられ、右田地三町分の作得を以って寺賄、相続なすのところ、何の頃よりか下郷九箇所村の用水が田地に落ち入り、沼潰れ地に成り溜り、自然に取続き行き届き難く、久年無住にして稍零落に及べり。本山より開祖同じきを以って江戸本所の妙縁寺(舜師開基の寺なり)に預けられ之を支配せしむ。これ時に文政元戊寅年(万治三子年より百五十九年享保十七子年より八十七年になる)同国筑波郡元名弥平太村旧年退転せり、由って田畑荒廃せり、而るに御代宦杉庄兵衛殿再発仕方を公聞に達せられ、同支配所は伊豆国八丈村より出百姓仰せ付けられ、家作り農具等夫れぞれ御手当を下し置かれ、追々男女数多出島し田地開発をなす。右の人等當宗門に帰依するに由って、年寄佐々生定右衛門発起し、江戸本所妙縁寺の現在恵了坊(弟子賢隆は八丈島の産にして定右衛門の縁者なり)に謁し、當宗門の末寺一宇を常州筑波郡八丈村に建立し、出島人等一同の菩提寺にせんと欲す云々。恵了坊踊躍歓喜して之に告げて曰く、経に云く、一眼の亀の浮木の孔に値うとは是なり。併し乍ら当時新寺造立の儀は容易なるべからず、引き寺の儀は古例あり、これ幸なるかな、同国同郡牛久新田に於いて当寺兼帯の古跡(本證寺の事)あり、彼の寺を引地に願ひしかるべしと云々。定右衛門の云わく、宜なるかな彼地亦同支配所なり、我等は御代官所に願を立つべし、仁者御公辺及び本山向け執整せらるべし云々。恵了坊早速右條を本山(四十八世日量代)に達す。返命に云わく、幸慶何ぞこれにしかず、速やかに其の事を企て、忽にすることなけれと。茲に於いて同二己卯(五月)仲夏訴状を公聴(御掛寺社奉行松平伯耆守様)捧げ、牛久本證寺を八丈村に引き移さんと請う、御評定数度にして御吟味の上、同三年庚辰仲春(二月)、(松平周防守様御内寄合の席に於いて)願の通り御免許仰せ付けられ、検地役人(関口伊与之助殿)地所見分引替御渡これあり(但牛久境内の内三反歩余り墓所地は相残下しおかれ願書等別記の如し)。素願已に満じ、喜悦余り有り、此れを以って迩方の真俗は財宝を寄し、資具を附し、近所の男女は木竹を荷ひ土石を負ひ堂舎忽に之を造営す、山号を筑波山と改む、寺号は本名の如し。同じく四年辛巳林鐘(六月)七日本尊に入仏供奉の僧俗稲麻の如し。同じく初冬(十月)中三日(十三日)開眼供養す。参詣の貴賎竹葦に似たり、後代存知のために之を誌し置き畢んぬ。

本山第四十八嗣法日量代  役者寂日坊

日掌観行坊日言  願主甚神阿闍梨恵了坊

日脱(八丈村年寄法号本寿日證)佐々生定右衛門

當将軍十一代源家斉公御治世(御老中)阿部備中守(寺社御奉行御掛り)松平伯耆守(御内寄合)松平周防守(御勘定奉行)石川主水正(御代宦)杉庄兵衛

(手傳衆御掛り)村尾半平(御検関口伊兵助地役)

 

古寺名刹案内

筑波山 本證寺

 

   本證寺のあるつくば市は、筑波大学を中心として、広大な地域に各省庁の研究機関や大病院などの集まる研究学園都市で、化学・工業の最先端の技術が日夜研究され生み出されている二十一世紀の未来を切り開くテクノクラート(高度な技術をもつ行政官・管理者)の集まる地域でもあります。しかし、学園都市から少し郊外にある本證寺の周りは、三月のうららかな日差しのなか広い田畑が広がり、海内(四海の内)の名山としてその名を知られる筑波山がそびえる、まことに牧歌的な風景が広がるところです。

   『常陸国風土記(奈良時代元明天皇が編纂した各地方の明細誌の一つ)』には、「坂より東の国々の男女、春は花の開くる時、秋は葉のもみじする折、相携ひつらなり飲食を持ち来て騎にも歩にも登り楽しみ遊ぶ」とあり、古代の筑波山麓では、歌垣といって春と秋に男女が集まり、歌舞をして求愛や求婚をする風俗習慣があったことが知られており、『万葉集』などにも多くの歌が収められています。このような古代のロマンと現代の最先端の技術とが交差する土地柄の、筑波の地に本證寺が創建されて百七十六年という歳月をきざんでいますが、実際の本證寺の歴史は更に古く、総本山第十九世日舜上人が一六六〇年に、大石寺の近在にある上井出の地に信行山の山号で創立されたのがその初めです。

 

住所 茨城県つくば市大字要四十六番地

 

創建 万治三年(一六六〇)九月二十八日「日舜富士上井出に本證寺を創す」享保十七年(一七三二)「米沢妙円寺是好坊富士上井出本證寺を常陸牛久沼新田に移す」文政四年(一八二一)十月十三日「江戸妙縁寺恵了坊日悦常陸本證寺を牛久より弥平田村に移し、山号を筑波山と改む」<富士年表>

 

寺宝 日詳上人御本尊 一体 享保十九年仲秋仏生日本堂安置

   日養上人御本尊 一幅

   日東上人御本尊 一幅

*その他御歴代上人御本尊十五幅収蔵 

   宗祖御影像 文政三年九月十三日日宣上人御開眼

  *これらの重宝類は、毎年五月中の日曜日にお虫払い法要を行ない、一般参詣者に公開されます。

 

開基 上井出時代 総本山第十九世日舜上人

     牛久時代  総本山第二十八世日詳上人

     現在    妙縁寺恵了坊日悦

 

開基檀那 現在 佐々木定右衛門

 

 

縁起・沿革

 

 本證寺の創建とその後の移転については、第四十八世日量上人の『続家中しょう』の中の日舜上人に、「師創むるの寺、江戸本所中の郷正栄山妙縁寺、当国(駿河国)上井出信行山本證寺なり、本證寺後詳師の代、享保中に常州牛久に引寺す、其後又日量代に文政中同州筑波郡八丈村に引寺す、願主江戸妙縁寺八丈島佐々木定右衛門」

とあり、本證寺は元来筑波郡にあったのではなく、初め日舜上人によって、大石寺にほど近い上井出の地に建立されたことが分かります。しかし、ほどなく無住となり庵のようなものがあるだけになったようです。

 そのようななか、日詳上人の頃(享保年間・八代将軍吉宗の時代)、常陸国(現在の茨城県のほとんど)の牛久に新田の開発があり、新たに集落が興り、当宗の信徒も移住し、折伏により何世帯かになったものと思われます。このような所には「引寺」といって、無住になっている寺や廃寺を名跡だけ移し、新寺を建立するという方法が取られました。

 本證寺もこのような手法で上井出より牛久に移されたのですが、不幸なことに開発した新田が水害によりまったく沼地となってしまい、経済的な基盤を失い、移転より百年とたたず廃寺となってしまいました。

 その後の事情を『本證寺略縁起』に、

「御代官杉庄兵衛殿再発仕方に達せられ、同支配所は伊豆国府より八丈島へ出百姓仰せ付けられ、家作農具等それぞれ御手当を下し置かれ追々男女数多出島し、田地開発をなす。右の人等当宗門に帰依するに由って、年寄佐々木定右衛門発足し、江戸本所妙縁寺現在恵了坊に謁し、一同の菩提寺にせんと欲す云々」

とあって、佐々木定右衛門が中心となり八丈島より入植して新田の開発・干拓をしてきた人たちに大聖人の教えを説き教化し、やがて、定右衛門は縁者が妙縁寺恵了坊の弟子(賢隆坊・八丈島出身)になっている縁を頼りに、新寺建立の協力と合力とを恵了坊に依頼し、牛久にあった本證寺を筑波に引寺して建立となったのです。

『略縁起』には当時の模様を、

「近所の男女は木竹を荷なひ土石を負ひ堂舎忽に之を造営」

とあり、八丈島より入植した農民が苦労の末、干拓事業を起こし、更に自分達の信仰である本證寺を手作業で建てたのです。

 以来百八十六年、明治期に二度の火災、第二次世界大戦中は隣接地が国家神道の圧力により神社として摂取されてしま等の困難の道が続きますが、戦後は昭和三十九年日達上人の御慈悲で全面的な改修工事が行われ現在に至っています。

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